なら梨とり

むかし
あるところに おかあさんと三人兄弟がいました
あるとき お母さんが病気になって
「なら梨が食べたい」と言いました
そこで 一番目の太郎がなら梨とりに 出かけていきました
山道を行くが行くが行くと
大きな岩の上に ばあさまが一人座っていて
「どこさいく?」と言いました
「なら梨とりさ いきます」と太郎が言うと
「この道を行くと 三本の枝道があって
笹こが三本たっておる。その笹が
いけっちゃ がさがさ
いくなっちゃ がさがさ
というから いけっちゃがさがさがさ と
いうたほうさいけ。と教えてくれました。

〜中略〜
太郎はばあさまの言われたことを忘れて
"いくなっちゃ がさがさ”という方へ入って行きました
すると
木の上にカラスが巣を作っているところに出て
"いくなっちゃ とんとん”と鳴いていました。
それでも かまわずに行くと
ふくべがぶら下がっているところに出て
"いくなっちゃ からから"となっていました。
それでも かまわずに行くと

大きな沼があって 沼のほとりにはなら梨が
"ざらん ざらん"となっていました。


〜 以下 かいつまんで〜
太郎は沼の主に のまれてしまいます
次に 次郎もばあさまの言うことを聞かないで
沼の主に のまれてしまいます。
おしまいに
三郎は ばあさまから 念を押され 
その上 ちゃんと言うことを守り
沼の主をやっつけて 兄さん達を助けて ならなしを持って帰り
病気のお母さんに食べさせることができるのです



お母さんの病気はけろけろとなおり
それからはみんなで 幸せに暮らしたと言うことです。どんとはれ。



とこんなお話しです 「おはなしのろうそく」〜東京子ども図書館〜より


今日、カナの1年生の朝読で語ってきました。

不思議なくらいに このお話が語りたくて 仕方がなかった。
今まで なんとなく手応えの薄い印象があった私の持ち話。
おはなしのろうそく の訳は次郎の場面の繰り返しを 思いっきり省略していて
なんとなく物足りないのかな。。と思っていたお話し。
だけど いざ、1年生でお話しだ!と決まったとき
「なら梨とり」を語りたい!と思った。
こんなに このお話しを語りたい!と思ったことは今までになかった。

秋の臭いや  肌に感じる空気が
このお話を 語りたい気持ちにさせてくれた

(お話しの足音が聞こえてきたのかも
 たったかた〜たったかた〜)

語る前の日は 5回は口に出そうと練習する。
お話しを声にのせると・・・・
不思議に感触が今までと違う。
しっくりと馴染む感触。


笹っこは こっちへいくな〜とかこっちだよ〜と思って
がさがさ なっているのではなく
ただ いくなっちゃが〜さがさ いけっちゃがさがさと 歌っているのだろう。

耳に届かそうとしているのでなく
耳に届いた子が自分で選ぶんだと。。そんな話なんだ。

自分で気がつかないと 何にもならない
そんな事は 世の中いっぱいあるもんだ。

たとえ 
今気がつかなくても。。

それに比べて
私は「いくなっちゃがさがさ」しかない子育てをしてきたかも・・



ん〜
昔話はほんとに いいもんですね。
おっと、今日の語りの手応え。。
最高っす。後半力が入りすぎたことをのぞけば。。
カナが
「おかあさん 今日のお話し面白かったね〜
ところで ぬまのほとりって何?ほんまにぬしっているの??」
と 帰ってきて聞いてきた
母「主??そりゃ〜いるよ〜」

これは低学年に向いているんだと 今頃確信。。
あ〜感謝感謝 語りの機会に感謝です。